国指定重要文化財 初山宝林寺

黄檗宗

 
本 山 : 黄檗宗大本山萬福寺   京都府宇治市五ケ庄三番割34

開 山 : 隠元隆g禅師

  黄檗山萬福寺は、元来中国福建省福清市漁溪聯華村にあり、唐の太宗の時代である貞観5年(631)に、六祖慧能禅師の法を嗣いだ正幹の開創した般若堂がその始まりとされ、唐の第9代皇帝徳宗の時に黄檗希運禅師(?〜856)が建徳禅寺と改め、黄檗山と名付けたと云われている。

  その後、衰微、重興を繰り返しながら、萬暦42年(1614)に宰相葉文忠の助力によって、全蔵676函とその運搬経費300両が下賜され、その時の住職鏡源興慈禅師・鏡源興壽禅師によって、復興の事業が始まり、名も萬福寺と改められた。

  中国明朝末に、福建省福州の黄檗山萬福寺(現在の古黄檗)で、住職として大いに禅の教えを広めていた隠元隆g禅師が、日本からの度々の招きに応じて、江戸時代の承応3年(1654)に多くの弟子や職人を伴って長崎に渡来した。また、隠元隆g禅師が渡来することを聞いて、日本の各地から大勢の修行僧が弟子となり教えを受けた。

なかでも、御水尾法王や徳川将軍の帰依は厚く、徳川四代将軍家綱公より現在地(京都府宇治市)に寺領10万坪を与えられ、隠元隆g禅師は日本での拠点となる一大禅林の創建に着手。伽藍建築や仏像造りには共に渡来した職人達が力を奮い、中国福建省福州の古黄檗を模し、また寺名も古黄檗よりとって、寛文元年(1661)明朝様式の禅寺「黄檗山萬福寺」を開創した。

  江戸初期から中頃にかけて、黄檗山では18名の中国僧が住職を務め、また朝夕のお勤めをはじめ、儀式作法や法式・梵唄(声明)は中国風に執り行われ、その景観を含め異国情緒溢れる雰囲気は、鎌倉以降停滞気味だった宗教界に新風を吹き込み、全国各地で黄檗寺院の建立が進められ黄檗禅は隆盛を極めた。

江戸時代の俳人・菊舎は当時の黄檗山の様子を、

「山門を 出れば日本ぞ 茶摘歌」

と歌っている。

  今日でも黄檗宗ではそれら伝統が受け継がれており、中国・台湾・東南アジアにある中国寺院で執り行われている仏教儀礼と類似している。




黄檗宗大本山萬福寺 大雄寳殿