開山の大堅元用和尚は上谷保(現在の国立市谷保)で延宝4年(1676)に矢沢家で生まれた。
矢沢家は矢沢豊後守といい、関東鋳工頭であった。
初祖は信州佐久郡矢沢床の出身で、矢沢豊後守良春は奈良大仏の製作に参加したと伝えられている。
出家の動機に、師僧との因縁は不明であるが元禄15年(1702)26歳の時に実山道傳の法を嗣いでいる。

享保7年(1722)、血縁者矢沢藤八と共に新田開発と一寺建立の願を発し、上谷保村の農民6人と江戸の商人4人を誘い幕府(八代将軍吉宗の頃)に新田開発の願書を提出した。

翌享保8年(1723)に許可を得る事に成功したものの新田開発の権利金(冥加金)が納められず窮地に立たされた2人は江戸で穀物商をしていた上総国望陀郡万国村(千葉県君津市)出身の野中屋善左衛門に相談した。
当初、大堅和尚らは新田に「矢沢新田」と名付けようと考えたが善左衛門の苗字「野中」を使用する、土地を割り当てだす事の2つを了解して援助を受け開発が進められた。

大堅和尚は享保9年(1724)草庵を結び衆化に勤めていたが、小平市の円成院(大堅和尚は宝永2年(1705)に谷保村(現在の国立市谷保)に円成院という寺を建立していて、享保12年(1727)に小平市に引寺して開創していた。)からの引寺を寺社奉行に申請、享保13年(1728)に許可され自得山鳳林院を創建した。
大堅和尚52歳の時であった。

同じく円成院から毘沙門天を勧請して村の鎮守とした。
これらによって野中新田は独立した村として代官所より認めらるようになった。

 1713年創建の庫裡

享保17年(1732)に野中新田は三組に分けられ鳳林院近辺は南野中と呼ばれ六左衛門が名主となり近年まで野中新田六左衛門組と呼ばれることになった。

元文年間(1736〜40)ごろ鳳林院は名主同士の揉め事が発端となり道向かいに在る曹洞宗妙法寺の創建の元となった。

天保7年(1836)七代雪江真棹の時代に本堂を再興し、中興の称号を与えられているが詳しい内容は不明である。

鳳林院は江戸末期から明治初期にかけて寺小屋が開設され子弟の教場となっていた。

明治5年(1872)学制が発布され、翌年この寺小屋は「里仁小学校」として発足、国分寺尋常小学校の西分教場となり、現在の第二小学校の元となった。


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