廣済寺

広済寺

〒134-0003
東京都江戸川区春江町4-23
電話:03-3653-4345

  • 1669年(寛文九年)に当時の上州(群馬県)館林城主綱吉公の許可を得た潮音道海禅師により、関東における最初の黄檗禅道場として城内に建立された。 大いに禅風を挙げ、禅師に深く帰衣し、檀越(信者)となった多くの庶民がその膝下に集り、後に黒滝派という一派を形成、その言動が与えた影響は社会的に大きいものがあった。
  • のちに潮音禅師は、江戸に上がった折り、五代将軍となった綱吉公よりかねて御念誦仏とされていた「定朝法印」作の木像(現広済寺本堂安置の正観世音菩薩像)及び葵の御紋、戸張水引の拝領を機に、深川高橋通りの池田氏之丞別荘(現清澄公園周辺)中の大滋庵(寛文六年創建)に鎮座し、自ら住職となった。
  • 1690年(元禄二年)弟子高原永泉禅師(第三代)に、1693年(元禄五年)龍巌浄活禅師に引き継がれた。
  • 1712年(正徳二年)故家綱公の三十三回忌にあたり、御追福のため公明により大滋庵を改め、萬徳山広済寺と称された。翌年深川猿江の地に移転、綱吉公より拝領の「正観音像」を安座し奉り広済寺御本尊とされた。
  • 1733年(享保十八年)第五代禎山衍鷲禅師が新たに堂宇を建立し、禅寺としての体勢を整えたので同禅師は広済寺中興の祖と称された。
  • このように広済寺の在所は時を経て、移転を繰り返したが、潮音禅師が残した道俗者教化の道標は代々引き継がれて修養修業の道場として活躍を続けた。
  • 1790年(寛政二年)本所瓦町からの出火によって堂宇延焼したため、当時の住職(第7代)桂峰和尚は四方近在を歓化して1804年(文化元年)にはほぼ旧態に復した。
  • この年から現在恒例になっている大施餓鬼法要が毎年7月18日(現在は7月13日)に行われるようになった。
  • 1868年(明治元年)広済寺内にあった寺子屋が現江東区立東川小学校に引き継がれた。
  • 1923年(大正十二年)9月、関東大震災により堂宇什器が崩壊したが、住職精拙和尚の献身により御本尊ならびに霊艦録(過去帳)のみは亡失の難を逃れることができた。
  • 1928年(昭和三年)区画整理の為、約5年の歳月をかけて墓石を現在地(江戸川区春江町)に移転、庫裡を建築し、昭和8年本堂の完成によって移転を完了。